それが貼られた店は所謂アダルトグッズを扱う店。居酒屋溢れるこの界隈ではあってもおかしくなかった。
「『媚薬始めました』だって」
「なんだそれ、冷やし中華かよ」
「冷麺じゃないの?」
「冷やし中華と冷麺は違うだろ」
一次会はゼミの教授も一緒のただのお食事会。二次会はアルコールも交えたゼミ生と助手の先生だけの飲み会。三次会以降は各自で、というのが青子の入っているゼミの卒論発表会後のいつものルート。
「大体始めるもの?」
「内服? 塗り薬? フェロモンにするならすぐじゃないだろ。どれくらいで変化するんだ?」
「香水みたいな感じ? 時間を追って変わって行ったりするんじゃないの」
「買いに行ってくる」
意を決したように青子が『媚薬始めました』と貼ってある店に向かって歩き出した。
ざわざわとした雑談の音が一瞬消えた。次の瞬間。
「待ちなよ、青子!」
「中森さん、どうしたの」
「まて、止めろ」
「いいじゃん、おもしろそーじゃん」
「面白くないだろ!」
慌てて同期のゼミ生が止めに入るが、アルコールの入った青子を止めるのはそんなに簡単な事ではなく。
「やだやだやだ青子媚薬買うの! 快斗に飲んでもらう!」
「中森さんとこいらないでしょ」
「お前んとこがいるなら他のとこどうなるんだよ」
何をどう説得したとて、青子の耳には入らず。目的地にぐいぐいと足を進め、最終的に媚薬を購入し満足そうな笑みを浮かべたのだった。
+ + +
ゼミの卒論の飲み会じゃなかったっけな? と青子を迎えに来た快斗は思った。
『先輩の卒論発表が終わったから労わる会なの!』とか言って出かけて行った気がする。二次会までは行ってくるねとも言っていた。卒論発表が終わってしまえば先輩方のうち幾人かはそのまま学会発表に移ったりするが、大部分はまったり卒業を待つだけだから皆気が緩んじゃうかな~青子お世話しなくちゃ! とか言っていたのは青子だったと思う。
だがしかし。現状お世話されているのは青子で、快斗の記憶が確かなら、お世話してくれているのは青子と同じ研究をしている先輩だったと思う。お世話になりすぎではないだろうか。
「何かあっても青子ちゃんを責めないで」
「はあ……」
青子を預かろうと手を伸ばせば、女の先輩はそう言った。当の幼馴染は快斗に気が付くと嬉しそうに手を差し出しその腕の中にぽすんとおさまる。
「やっぱりいらないと思うんだけどな~……」
「何がです?」
青子を見て、右の店に視線をやって、もう一度青子を見て、ちょっとため息をつく先輩。
「でもまあ、使ったらどんなのだったか教えて?」
「何がですか?」
「何を思ってその名称名乗るのか、気になるのよね」
「はあ……」
主語のない話は内容が皆目見当つかない。分かることは多分青子がそれを持っていて、使うんじゃないかという事位だ。
気を付けて帰ってね! と手を振られ、酔っ払いを連れて快斗はその場を立ち去った。
帰りのタクシーの中ですやすやとしたせいか、自宅に帰れば青子は元気いっぱいにしゃきしゃきと歩いてリビングに行く。が、そこはやはり酔っ払いだった。真っ直ぐ歩いてるなと思えば次の瞬間ソファにへたり込む。緩急強弱が激しい。
快斗は取り合えず青子の隣に腰を落とす。ここで寝させるわけにはいかない。部屋まで連れて行くのは自分の役目だ。こういう時に限って警部も碧子さんもいない。何故か飲み会の日にここの両親はいた事が殆どない。たまたまだとは思うが。
青子はソファにごろんとし快斗の指を自身の指で弄んでいたが、何かを思い出したらしく勢いよく起き上がった。そしてショルダーバッグの中を漁り、何やら見つけ出しにんまりと笑う。その手の中には小さな瓶。とげとげしいピンク色。
「快斗、これ飲んで!」
「なんだよこれ」
「媚薬」
ででんと押し付けられたその瓶には媚薬と書いたステッカーのようなものだけが貼ってある。説明書は何処だ。偽物だろ、これ。快斗は一に二もなくそう思う。微妙に甘いにおいも漏れ出している。色と言いにおいと言い、かき氷のシロップでは? と秘かに思うほどで。本当に効果がある訳でなく、ただの盛り上がるためだけのアイテムでしかないだろうと結論付ける。
どれだけ飲んだんだよ、青子は……とため息がでる。だがしかしその目は真剣そのものなので安易に否定するのも躊躇われ。何より酔っ払いに逆らうのは是非もない。
「飲んで! そしたら青子としよう」
「…………はあ!?」
するって何を? 思考が結果に辿り着く前に青子は快斗に飛びついてきた。勢い殺せずそのまま押し倒される形になる。
「だって、快斗。最近ちゅーくらいで終わっちゃうし。青子の体貧相だから。ちょっとしてみたけどやっぱりつまんないとか思ったのかなって。でも、青子には快斗しかいないし。だから、だから」
「あーもう落ち着け。つまんないとか思ってないから」
「ほんとに?」
「ほんとほんと」
「うそっぽい」
「うそじゃないって」
ぐいぐいと快斗の腕の中に自分からおさまって来る。細い腕が背に回され、顔は胸にうずめ。そして微かなアルコールにおい。誘い過ぎだコノヤローと必死に脳に停止信号を送る。相手は酔っぱらっているだけだ。
「ほら、青子。ベッドいけ。寝ろ」
「しないの?」
すん、と鼻をすする音。
兎に角離れて欲しい。煽って来るな、と願うも酔っ払いには通じない。
「今はだーめ。ほら、酔っぱらってる時の行動は失敗の元だろ」
「だって、青子。快斗好きなのに」
どうしてこういう時だけストレートに好意を表現するのか。普段は態度で見せても言葉にする事は殆どない。それはお互い様だと思っているけども。
「や、やっぱり体がいい子がいいのかなって。するのは他の子のとこ行ってるのかなって。じゃあ青子なんだろう、分かんないって。キープされてるだけかなとか、思って……っ」
「他のとこなんて行かないって。青子だけだから」
べそべそと泣きじゃくる青子。酔うとそのまま感情を吐露してくる。そこまで我慢しなくていいぞと思うが、多分それは彼女にとっての引けないラインなのだろう。
その小さな背中にそっと腕を回す。
単純にお互いゼミの先輩の卒論の補助をしていたら忙しかっただけだ。夕食すら一緒にすることも減っていた。特に青子は食事をしたらそのまま眠りの国へ旅立ち、何度快斗が部屋まで抱きかかえて行ったか判らない。青子の寝顔を見ながら、気付かれないよう額にキスをして自宅へ帰るという日々。卒論の追い込みとはこれほどなのかと、自分達の時はどうなるんだとまだ見ぬ未来にげんなりしたものだ。
「かいとぉ……」
「はいはい、だいじょうぶだいじょうぶ。青子もオレもずっと忙しかったからな。終わったから、また一緒にいれるだろ」
背中に置いた手に力をこめる。
うん、と小さく答える音が耳を打つ。
「青子、快斗とお出かけしたい」
「おう」
「あとね、ご飯食べに行きたい」
「そうだな」
「期間限定のケーキ終わっちゃった」
「次の期間限定が出るだろ。そっち行こうぜ」
「うん」
「あおこね、かいとがね、すきでね、だから……」
最後は言葉にならず寝息に消えた。
体の上の青子の心地よい重さを感じながら快斗は瞼を閉じる。電気消さなきゃな、青子を部屋に連れて行かなきゃなとやることはいくつも浮かんでくるが、それは実行されることなく眠りに落ちて行った。